【MKタクシー60周年】1960年10月26日 ミナミタクシー創立
1960年10月26日、MKタクシーの前身であるミナミタクシー株式会社が設立されました。
当時、タクシー不足が社会問題となっており、1960年にタクシーへの新規参入が認められることになりました。
規模に関わらず、やる気のある事業者にタクシー免許を与えるという陸運局の方針により、ミナミタクシーの参入も認められました。
危険な「神風タクシー」が社会問題に
供給不足で白タクや神風タクシーが登場
急激な経済成長により、タクシー需要に比べてタクシーの台数不足が顕在化していました。
そのため、タクシーの免許を持たない違法な「白タク」が幅を利かせ、不当な高額運賃や暴力行為も多発していました。
需給バランスの崩れを背景に、正規のタクシーも今とはくらべものにならないひどいものでした。
危険運転を繰り返すタクシーを揶揄する「神風タクシー」による死亡事故が起こるなど、社会問題となっていました。
タクシーの新規免許を認める方針に
タクシー乗場では客が長蛇の列を作り、タクシーが客を選ぶ乗車拒否は日常茶飯時でした。
このような状況を解決するには、供給の適正化しかありません。
タクシーを増やせという世論により運輸省も、重い腰を上げざるを得ませんでした。
1960年(昭和35年)から1961(昭和36年)年にかけて、全国的にタクシーの新規免許が認められる方針となりました。
それまでの少数事業者による独占が崩れたのです。
このとき参入した事業者は、のちに「三五事業者/三六事業者」などと言われ、長らく新規事業者の代名詞でした。
やる気重視で新規参入を審査
資本重視かやる気重視か
新規参入が認められるとはいえ、実際には十分な資本的裏付けのない小規模な新規事業者には、免許は認められないという当初の前評判でした。
しかし、運輸省は規模に関わらず、やる気のある事業者に免許を与えることでサービスの活性化を促すという方針をとりました。
そのため、零細事業者に過ぎないミナミタクシーも、タクシーの新規免許を受けることができました。
今のタクシーを作った陸運局の英断
零細なタクシー会社に多数新規免許を与えても、採算が取れず質の高いタクシーが供給されるわけない、当時は批判を浴びることもありました。
しかし、今、世界的にも評価が高い日本のタクシーがあるのも、このときの運輸省のやる気を重視するという英断のおかげと言えます。
なお、当時は労働運動の強い時期であったので、労働者に夢を与え、評判の悪い法人タクシーに抵抗させる意味で、個人タクシーが誕生したのも同じ1960年です。
ミナミタクシーがタクシーの新規免許
タクシーは儲かるという噂を聞きつけて申請
のちにMKグループの創業者となる青木定雄は、1957年(昭和32年)から永井石油(現MK石油)というガソリンスタンド業を営んでいました。
タクシーの新規免許が認められるという状況下で、たまたま「タクシーは儲かるぞ」という話を聞きつけました。
ガソリンを安く仕入れることができるため、他社より優位に立つことができるだろうと考え、タクシーの新規免許を申請することにしました。
申請した理由は、決してタクシー業界を変革しようという志に燃えていたのではありません。
「タクシーは儲かるというし、タクシーならガソリンも使うし」という考えからのタクシー業界進出でした。
1960年(昭和35年)3月8日、青木定雄の出資により新たにミナミタクシー株式会社を設立するとし、大阪陸運局にタクシーの新規免許を申請しました。
発起人代表は、その後長くミナミタクシーやエムケイの社長を務める中村達四郎でした。
なお、中村達四郎は、NHKの 「NAGAI~焼け野原のピンポン~」で2020年に取り上げられました。
タクシーやガソリンスタンドの経営者とは別に、卓球選手としてのもう一つの横顔がありました。
想定外のタクシー新規免許
しかし、儲かる事業に人が集まるのは当然です。
このとき大阪陸運局にタクシーの新規免許を申請したのは約百件もありました。
青木も、小規模事業者は許可されないのではないかという前評判から、通るはずがないと思っていました。
それでも中村は聴聞でのいろいろな質問を想定して大阪まで講習に通ったり、徹夜で勉強するなど準備を進めました。
同年10月1日、無事タクシーの新規免許が下りることになりました。
想定外だったので、大慌てで同業者から就業規則などの書類を借りるなど、急ピッチで営業準備を開始しました。
トップを切ってタクシー営業開始
大急ぎで営業開始の準備
営業所、車庫は永井石油の本社内(南区西九条島町)におきました。
営業車の塗装をどんな色にしようかと考えあぐねた青木は、数日繁華街に立ちつくし、行き交う車を眺めて、当時外車に多く見られたアイボリーに決めました。
免許を受けても、すぐに営業できるわけではありません。
様々な準備が必要なため、免許の条件では4ヶ月以内に開業することと定められていました。
アッと驚くスピード開業
できるだけ早く開業するため、免許を受けると直ちに夜を徹して作業を続けました。
1960年(昭和35年)10月26日には、ミナミタクシー株式会社が設立。
免許から1ヶ月余り後の11月9日には営業開始を実現し、業界をアッと言わせました。
京都新聞で取り上げられる
当該記事からは、以下の情報がわかります。
- 10/1に新たに17社(115台)が免許を受けた
- トップを切ってミナミタクシーが開業した
社長の中村達四郎「ガソリンを売るだけならつまらない。人件費についで大きなガソリンはお手の物なので、他社より優位に立てると判断した」
開業翌日には運転手がトラック泥棒を捕まえて名を挙げた - 俳優月形竜之介はアオイ自動車を創業
「出入の運転手から話を聞くうち、公共性があって文化性があることに興味を抱いた」
マークも月形にちなんで三日月に"アオイ"を配したデザイン - 宝酒造のタカラタクシーは「(タクシーに不便をかこつ)伏見区民に何かの形で恩返し」をするため進出
タカラタクシーの支配人は「30台ないと採算が取れないのに、10台の認可だった」と、少ない台数で多数の事業者に免許を出したことをちょっぴり批判 - 任天堂のダイヤ交通は「(師団十条の)会社を訪れるお客さんにも迷惑をかけ通しになっている」ため進出
製品のトランプから"誠実"を表すダイヤを社名に - お医者さんが社長の伏見タクシー
診察に来た人が白タクを始めたと聞き、非合法な白タクをやめるように諭したのがきっかけ - 比叡山観光ホテル(ロテルド比叡の前身)は関西で初めてホテルのハイヤー営業を認められた
すでにあるホテルが申請の準備を始めているという - 新免タクシーは運転者不足で確保に躍起
陸運局は「露骨な引き抜きで混乱を来さないよう」警告 - 府陸運事務所長は「大会社でないとダメだという気分を一掃し、中小タクシーに門戸を開いたことに意義がある。各社のサービス競争で市民にとってはかえってプラスが期待できる」と新規タクシーの活躍に期待
後日談として、注目を集めた他業種からの参入は、その後営業不振により数年で撤退を余儀なくされることになります。
宝酒造のタカラタクシーは、1965年(昭和40年)にタクシー事業から撤退。
ヤサカグループの洛陽交運傘下の桃山タクシーとなり、1974年に洛陽交運に吸収合併されました。
任天堂のダイヤタクシーは、1969年(昭和44年)にタクシー事業から撤退。
名鉄グループの京都名鉄タクシーとなり、2004年(平成16年)にヤサカグループの南ヤサカ交通となりました。