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アフガン訪問記「人と自然の和解」を実感|MK新聞2019年掲載記事

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MKタクシーの車内広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただいた中村哲さんの記事を、2000年以来これまで30回以上にわたって掲載してきました。

MK新聞2019年11月1日号の掲載記事の再録です。
原則として、掲載時点の情報です。

この記事は、2019年9月25日付けペシャワール会報No.141に掲載されたものです。著者及びペシャワール会の許可を得て、本紙に転載いたします。(MK新聞編集部)

アフガン訪問記―「人と自然の和解」を実感 谷津賢二(日本電波ニュース社)

マルワリード用水路沿いの丘の上にて

2019年4月。
アフガニスタンの強い日差しの中、私はマルワリード用水路沿いの丘の上に立ちました。私の眼前には鮮やかな緑の大地が広がり、心が浮き立つのがわかります。
私にとって今回の訪問は3年半ぶり、前回も同じこの丘に立ち、すでに緑に覆われた大地を見ました。
しかし、今回は何かが少し違う感じがしたのです。その違いが「音」かもしれないと気付くのに時間はかかりませんでした。
緑を渡る風に乗り、私の耳にさまざまな音が聞こえてきます。仕事をする男たちの威勢のよい声、遊ぶ子供たちの歓声、牛や鶏の鳴き声、そして小鳥のさえずり。
こうした音と美しい緑は濃密な命の気配を生み出し、その気配に私は圧倒されていました。
本物の農村が蘇ったのだと感じられたとたん、私の心は揺さぶられていたのです。これこそが中村哲医師とPMS、ペシャワール会の皆さんが心に思い描いていた、人々の穏やかな暮らしなのだと実感したのです。

ガンベリ農場の麦畑(2019年4月。撮影:谷津賢二)

ガンベリ農場の麦畑(2019年4月。撮影:谷津賢二)

その同じ時、自分が目撃してきた過去の光景を思い出してもいました。私は1998年に中村哲医師の活動を記録し始め、以来21年間、断続的にこの地の変化を見つめてきました。
かつて、この地域一帯は干ばつと戦乱で、命の気配どころか、命そのものが奪われた大地でした。
私が記録したのは、ひび割れた大地と水なし地獄の中で為す術のない人々、その頭上を飛ぶ米軍ヘリコプターと荒れ野を疾走する装甲車の姿でした。その時、荒れ野が緑濃き大地に生まれ変わると誰が想像出来たでしょうか。
今、PMSの用水路群は自然に溶け込み、静かに水を運んでいます。あたかも数百年前から途切れることなく水を運び続けた水路のように。

山田堰土地改良区理事長 徳永哲也さんと共に

今回の私のアフガニスタン訪問には映像記録以外にもう一つの役割がありました。
それは福岡県朝倉市の徳永哲也さんの現地訪問のお供をすることでした。
徳永さんはPMS用水路取水堰のモデルとなった筑後川の山田堰を、およそ300年間守り続けてきた水利組合の理事長。
中村哲医師の活動にさまざまな協力をしてきた方で、長年アフガニスタン訪問を望んでおられました。そして、今年ようやく訪問の機会が訪れたのです。

日本を出発し、4日かけてジャララバードに到着。まず、徳永さんと私が中村哲医師に導かれたのは、ガンベリ農場。
今は麦が育ち見渡す限り緑の農場ですが、10年前まで沙漠だった場所です。
写真や映像とは違い、自分の足で現地を訪れた徳永さんの感激ぶりが私にも強く伝わってきます。
その後、山田堰をモデルとした取水堰を訪れました。
この季節にしてはクナール河の水量は多く、訪れたカマⅠ堰もカマⅡ堰もその姿は水の中、片鱗しか見えません。しかし、川面の激しい白波の下の、揺るがぬ堰の威容は十分に感じることができます。
ふと徳永さんに目をやると、それまで感激で饒舌になっていた徳永さんが本当に静かなのです。
水門の端に立ちじっと目を凝らし、堰を見つめています。
私はそっと徳永さんに近づきましたが、黙ったままです。そして徳永さんの目に、薄っすらと涙が見えたのです。
徳永さんたちが守り続けてきた山田堰が、時と場所を変え、アフガニスタンに生まれ、人々の命を支えている事実の前に、圧倒されていたのだと思います。
今も安全とは言えないアフガニスタンに足を運んだ徳永さんの思いが、その後ろ姿から伝わってきました。

10年前、2009年12月のガンベリ沙漠。撮影中の谷津さん

10年前、2009年12月のガンベリ沙漠。撮影中の谷津さん

その後、徳永さんはガンベリ農場でオレンジの木の剪定方法を指導、日本のやり方にアフガン人スタッフは皆さん興味津々でした。
農場では麦や野菜の栽培以外にもさまざまな取り組みが始まっていました。
一つは徳永さんが指導したオレンジ栽培。
すでに2万本の木が育ち、手入れと実りを待っています。いずれはオレンジの一大産地になる可能性を秘めています。
もう一つは養蜂。
すでに巣箱も用意され、準備が整っていました。
ミツバチたちが目指すのはオレンジの花。日本ではミカンの蜂蜜は少ないそうですが、ガンベリ農場では有機栽培の広大なオレンジ畑があります。爽やかなオレンジの蜂蜜が味わえる日も近いでしょう。

徳永さんが山田堰の理事長であること、そして、アフガンのために何かをしたいというその一生懸命な姿に、アフガン人スタッフから深い敬意が示され、大歓迎のうちに10日間の訪問は過ぎました。

「人と自然の和解」とは

その間、私はあることを考え続けていました。
それは、この10年ほど中村哲医師が静かに口にし、繰り返し書き記している言葉についてです。
「人と自然の和解」。この言葉を私はアフガニスタンでも日本でも、何度も聞いてきました。しかし、私はこの言葉の真意をなかなか理解できないでいました。
人と自然が和解するとは、どういうことなのか。「人が自然を守る」のでもなく、「人と自然が共生」するでもなく、「人と自然が和解」する。

私は今回、思い切って中村哲医師に問うてみたのです。
「人と自然が和解するとは、どういうことなのでしょうか?」と。中村哲医師はこう答えてくれました。
「自然を人格と捉えるべきだと思っています。ですから和解という言葉を使っているのです」と。

ガンベリ農場を望む丘の上で。中村医師、パチャグル氏とともに(中央が谷津さん)

ガンベリ農場を望む丘の上で。中村哲医師、パチャグル氏とともに(中央が谷津さん)

自然を物言わぬものとして捉えると、人間は自然から欲望のままに恵みを無限に奪い取る。
しかし、自然に人格があると捉え、自然と対話し恵みの一部を人が受け取らせてもらう。
私は自分なりに「人と自然の和解」を、簡単ですが、こう理解しました。
そして人と自然が和解することで初めて「未来の希望」が生まれるのだと感じたのです。

暗い世相、未来への不安がある中で、中村哲医師が進める活動と言説の中にこそ、力強い未来の希望を見るのは私だけではないと思います。
帰国間際、私はマルワリード用水路沿いの丘の上に再び立ち、緑の沃野をもう一度目にした時に気づいたのです。これこそが「人と自然の和解」なのだと。

谷津賢二

日本電波ニュース社プロデューサー&カメラマン
1961年 栃木県足利市生まれ
立教大学社会学部卒
テレビ朝日グループ(株)FLEX入社、テレビ朝日ニュースカマラマンを務める
1994年 日本電波ニュース社入社。カメラマンとして「ルワンダ虐殺」「カンボジア内戦」などを取材。
1998年からPMSの中村哲医師の取材を始める。
その映像を元に、これまで『アフガンに命の水を』『アフガニスタン干ばつの大地に用水路を拓く』『アフガニスタン用水路が運ぶ恵みと平和』の3つの記録映像DVDを制作した。

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。  

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1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)